気 ま ま な 徒 然 草 

             ★★時にふれ、思ったことを気ままにに綴っています★★         TO HOME
 
             ※エッセー「道 程Essay-doutei.pdf 受傷してこれまでのことを綴っています。

  ◆NO31 長良川鵜飼              ◆NO30 飛行機雲
  ◆NO29 蝉になった夜             ◆NO28 一生を共にする一冊の本
  ◆NO27 旅立ちの日に             ◆NO26 本のなかの旅
  ◆NO25 受傷後20年の回顧録           ◆NO24 海外旅行、夢のまた夢の時代
  ◆NO23 時の流れの中で            ◆NO22 今はまだ道の途中
  ◆NO21 アマチュア オーケストラ         ◆NO20 不吉なコジュケイの鳴き声
  ◆NO19 陽だまりの中で・・・         ◆NO18 音楽のちから
  ◆NO17 さりげない気遣い           ◆NO16 窓枠の中の借景
  ◆NO15 黄赤色の実              ◆NO14 私の旅のスタイル
  ◆NO13 鳥 害                ◆NO12 揖保乃糸
  ◆NO11 ネパールからの手紙          ◆NO10 山派?それとも海派?
  ◆NO9   雨の朝に思ったこと          ◆NO8   偶然の再会
  ◆NO7     改めて「生きる」を考える       ◆NO6     自主トレのお伴は・・・
  ◆NO5     大和は国のまほろば          ◆NO4     スローな歩みで・・・
  ◆NO3     たおやかな笑顔に           ◆NO2     満開の桜を見て・・・
  ◆NO1    「障害は不便だけど、不幸でない」という言葉について

 NO-31                                        2017年6月5日

長良川鵜飼

 川下の奥深く、夕暮れの残照に黒くシルエットになった山並みが低く横たわっている。
岐阜県郡上市の山間に源を発し、伊勢湾に注ぐこの川は清流としても名高い長良川。
さざ波を立てる暮れなずむ川面は、川辺に建つホテルの窓からこぼれる灯りがミラーボールのようにキラキラと輝いている。ゆっくりと上流へと進んでいく観覧船は、水深の浅いところでは船外機を止め、舳に立つ白地に蒼い模様のついたはっぴを着た船頭二人が、それぞれに竹竿を差して水先案内をしている。
こうして上流へさかのぼること5分ほど。観覧船が集まる溜まり場には、すでに数隻の観覧船がを川岸に向けて並列していた。夏の気配を含んだ川風は清涼感にあふれていた。

 週3回の透析を受けている大阪に住む長姉を見舞ったあと、鵜飼見物しようとこの長良川にやってきた。
特段興味があった訳ではないけれど、一時帰国している長男に時間的余裕があるというので、帰路の一日をゆったり過ごそうと思ったのだ。ホテルで早めの夕食を済ませてこの鵜飼の観覧船に乗り込んだのだった。

 夜の戸張が下りて、まわりの風景が墨絵のようにうっすらと滲んだ頃、一発の打ち上げ花火の合図とともに
 上流から舳にを燃やして鵜舟がやってきた。鵜を操りながら下流へと進む先頭の鵜舟に、私も乗る観
 覧船が並走する。川面を走る風に篝火は大きな炎とともに火の粉を撒きちらし、鵜匠の顔を容赦なく
 焼く。その日鵜飼に使われる鵜は昼食を与えてもらえずに空腹の状態で漁に臨むという。

 古い伝統に培われた華やかさあふれる行事と思っていたが、以外にも地味で迫力に欠ける光景であった。
 10
羽ほどの紐で結ばれた鵜は、篝火の光の中で水中に潜るが、魚を呑みこんで鵜匠に引き上げられる鵜は並走
 中に1,2羽。考えてみると、この鵜飼は5月中旬から10月中旬までの5ヵ月間、ほぼ毎日開催される。
 5
ヵ月間毎日だと川魚だって数が少なくなるだろう。特に鮎は縄張りを持つ魚なので当然少なくなる。
 ほとんどは鮎以外の雑魚だという。
 

 数分の並走の後、観覧船は鵜舟から離れ、下流へと進んで止まった。船頭に聞くと、6艘の鵜舟が集団で魚を
 浅瀬に追い込むメインイベントの追い込み漁だという。闇夜に篝火が水面に映る光景は幻想的ではあったが、
 やはり迫力には欠けた。
 しかし、都から遠く離れたこの地での鵜飼が、時の権力者たちから保護され守り継がれていることに、栄華と
 権力の絶大さをしみじみと思う。

 それにしても、乗合船の1名分の料金が3.400円は高い。障害者割引も本人と介助者1名が300円引きだった。
 鵜匠は宮内庁の式部職ということだが、伝統を守り抜くにも多大な費用が掛かるということだろう。


 NO30                                       2017219

飛行機雲

日曜の昼下がり、ダイニングの陽だまりからガラス越しに空を見上げた。雲一つない冬晴れの深い碧空に、白い航跡を描いて飛行機が西に向かってグングン伸びていく。どこへ行く飛行機なんだろう。しばらく眺めていると、意外なほど頻繁に飛行機が飛んでくる。調べてみると、わが町の上空は、九州や沖縄など西に向かう航路になっていて、富士山を経て浜松辺りで太平洋に出るらしい。日曜日ということで便数も多いのだろう。
 そういえば、飛行機に最後に乗ったのはいつだったか。十数年前にグアムに行ったのが最後かもしれない。それくらい飛行機に乗って旅をしていない。しかし、思い返してみると私はかなり若い時から飛行機には乗っている。国産初の旅客機YS11から、ダクラス社DC-8DC-10、田中角栄の汚職事件で有名になったロッキード社のトライスターにも搭乗経験がある。極めつけは、チャーター便で型式は忘れたが、ソビエト製の飛行機で名古屋空港からウズベキスタンの首都タシケントへ飛んだことだ。ソビエト連邦が崩壊して中央アジア5カ国が独立して間もないころで、入国審査も不慣れでずいぶんと待たされた。この飛行機で印象に残っているのは、座席の背もたれが劇場の椅子のように座面に畳めること。共産国らしく質素で実用的だなぁ~と思ったものだった。
 空を見上げながらそんなことをうつらうつら思い出していた。静かで平和な午後のひと時。いつまた飛行機に乗れるかなぁ~。


 NO29                                       2016818

蝉になった夜

いっしゅん頭が真っ白になった。真夜中にトイレに起きようとして、ベッドの端からお尻を滑らせてフローリングの床に落ちてしまった。さてどうしたものか。不自然な体勢で床に横になったまましばらく途方に暮れた。どうにか仰向けの体勢になれた時、いつか目にした蝉が頭をよぎった。ウッドデッキに身動きひとつしないで仰向けになったまま横たわっている。死んでいるのかとしばらく見ていると脚と羽をばたつかせて、体位を元に戻そうともがいた。それでも丸々した体は小さく震えただけで元の木阿弥。今の自分と全く同じ状態。クスッと弱い鼻息が漏れたが、すぐにやり場のない動揺に見舞われた。

しかし、この状態をなんとかしなきゃ・・・以前、夜間の体調不良や予期せぬ事態が発生した時にそなえて2階に通報できる緊急用のブザーをベッド柵にぶら下げていた。しかし、この体勢では手を伸ばしても届かない。なんとしても2階で寝ている妻に知らせなければならない。気は焦るがブザーを押す体勢が取れない。幼児のように脚で床を蹴り、体幹を少しずつずらして、やっとブザーが押せた。脚の悪い妻がゆっくりと階下に降りてきて、開口一番なにやってのよぉ!と叱咤する。トホホッ・・・案の定叱られた。

それでもこのままでは如何ともしがたい。フローリングの硬い床は痛みも生み出す。とりあえず両脚を持ってもらい、ベッド柵の方向に向けてもらう。上体を起こし両手を精一杯伸ばしてベッド柵を握り、背中側から上体を引き上げてもらう。しかし、両脚が引き寄せられず、前方に流れてうまく立ち上がれない。妻の力も弱い。何度か試したが、フローリングの床は滑るしうまくいかない。疲れてきて仰向けの状態に戻した。普段使わない筋肉を使ったせいか痛みもでる。夏掛けの布団を体の下に敷いてもらったが半身しか乗らない。仕方なくそのままの状態で過ごすことになって、ストラップのついたブザーを首から下げさせてもらい、妻は2階に戻った。

 3時間ほど床に横たわったまま過ごす。痛みが増して再びブザーを押す。今度は慎重に脚の位置を決め、体勢を整え、妻と気を合わせて一気に動作した。やっと立ち上がれた。車椅子に座って一件落着。何とも騒々しい一夜で、今後も起こりうる事態に妻の顔もさえない。

 ところで、ウッドデッキに横たわっていた蝉はいつの間にかいなくなっていた。必死の思いで体勢を戻して飛び立ったのか、それとも鳥の餌にでもなったのだろうか・・・我が身と重なった。感傷を誘う夏の蝉。


 NO28                                       2016527
                   人生を共にする一冊の本

その本との出会いは中学生になったばかりのころだった。学校から帰宅すると一冊の文庫本が僕の机に無造作に置かれていた。もちろん僕の本ではなかった。聞くと高校三年生の姉が置いたという。姉はどういう気持ちでその本を僕の机に置いたのだろう。そのころの僕は読書に目覚めたころだったが、小遣いももらえず当時100円程度だった文庫本さえままならなかった。それを察した姉が読み終わったその本を僕の机に置いたのかもしれない。その本は純愛小説だった。恋愛のなんたるかも知らない中学生の僕は、姉もこんな恋愛に憧れているのかもと思いながら読み流した記憶がある。

 二度目にこの本を手にしたのは高校生活も終わる頃だった。人生とか恋愛とかが思索のすべてだった思春期の真っ只中だった。自己破滅的な太宰治の小説に傾向しつつも実社会で生きていくための自己確立の志向もあった。その当時、太宰治の対極にあったのが武者小路実篤であった。彼の著作のなかに再びこの本を見つけた。著者の若き日の回顧録的な小説で、愛によって強く深くなっていく生命力が描かれている。この時の読後感は、自己形成の生命力よりもむしろ小説のなかの恋愛相手の快活で美しい女性のような人との出会いや恋愛を夢想し憧れた。

 三度目に手にしたのはすでに三十代の大人になったころだつたと思う。本棚を整理している時に見つけ懐かしさで手にした。現実の社会に流され自分を見失いがちになっていたころだったかもしれない。純愛そのものより、純愛によって湧き上がる生命の息吹に強く感銘し、自分なりの生き方を模索するようにもなった。

 四たび読んだのはつい先日だ。もしかするとこの間にもう一度読んだかもしれないが記憶にない六十代後半にもなると自分の人生を振り返ることも多くなる。過ぎ去った過去のことは今更どうしようもないが、障害の負の部分に負けることなく、人生の終わりに向けて自分なりに満足できる形で終わりたいと思う、そんな気力を注ぎ込んでくれた。

 小説の中で著者はいう。「立派な仕事をするには立派な人間にならなくてはいけない。立派な人間になるには立派な行動をしなければならない。立派な行動をするには、忍耐強く、善意を持って生きなければならない。他人よりも苦しさに耐え、他人よりも勉強し、他人よりも働かねばならない。他人がくたばっても自分はくたばってはいけない。」果たして自分はどうだったか。どう考えても主人公には到底及ばないが、まぁこんなものか、と自分なりに納得できる人生の終わりに向けて努力しているところはある。

 このように人生の途中折々で私に生きる気力を与えてくれたその本は、武者小路実篤著の 『若き日の思い出』 である。同じ小説でありながら、年齢によって読み取る視点が変わってくる。この本にめぐり合えたのは幸いであった。


 NO27                                       2016327
                      旅立ちの日に

白い光の中に山並みは燃えて
                      はるかな空の果てまでも 君は飛び立つ          

 3月下旬、隣接する小学校から 「旅立ちの日に」 の合唱がかすかに聞こえてきた。卒業式が終わると校庭に保護者と5年生の児童が対面して2列に並び、その間を卒業する6年生が拍手の中を進んで学校を後にした。6年間の思い出と、中学生活への希望に心ふるわせているだろう旅立ち。我家の前の川沿いの道は車両進入禁止で通学路になっている。その通学路を登下校した子供たちが卒業していく。黄色いカバーのランドセルと帽子の頃からみていた子供たちの成長の速さに驚くとともに感慨深いものを感じた。新年度からは中学生。呼び名も児童から生徒へと変わり、思春期のただ中へと漕ぎ出す。

 卒業式・・・私にとっては遠く過ぎた記憶。それでもその節目節目にそれなりの未知なる未来に希望と夢を抱いていた。その希望や夢は時代や社会に流されて揺らいだけれど、私というアイデンティティはどうにか持ちこたえることができた。

時を経て、健常者から障害者になってしまったけれど、そして障害者としての旅立ちは困難を極めたけれど、温かい人たちの応援と支えがあってどうにか飛び立つことができた。逆境に耐え試行錯誤しながらも自分なりの道を踏み固めて、一歩一歩進んできた。希望に満ちた未来は、待っているのではなく自ら切り開くものなのだ。希望さえあれば人は前を向いて生きていける。
 卒業していく子供たちを見てエールを送るとともに、自分の人生を改めて考えたひと時だった。死に至るまで夢や希望は持ち続けたいものだ。


 NO26                                         2016226

本のなかの旅

障害を持つ身には旅行など意のままにならず、無性に旅に出たくなる時があります。しかし、実行するには誰かの手を借りなければならず、せめて夢の中ででも楽しめたらと思うのですが、夢だってそう簡単にはみれません。
 ありがたいことに昨今はテレビで旅番組が多く放映され、居ながらにして旅を楽しむことができます。国内はもちろん海外の美しい風景に感嘆し、美味しそうな食べ物にため息をつく。旅番組が多く放映される週末は、テレビを見るのも楽しみの一つではあります。しかし、それはテレビを観るという日常生活のひとコマであって、そこにはその土地の空気も匂いも人の息遣いも感じられません。

そこで思いついたことがあります。最近、私が読む本は小説よりエッセイが多いのですが、そのエッセイも外国で生活した著者のものがほとんどです。今読んでいる須賀敦子著「ミラノ霧の風景」も、著者がイタリア人と結婚してミラノで暮した日々の生活や交流を描いたものですが、ミラノの風景も素敵な文章で描かれています。ですが、それらは当然ながら文章での表現ですから、実際にそこを旅したことのある人以外は、文章を介してそれらの風景を想像するしかありません。絵葉書や画像から想像を膨らませることも一つの方法ですが、最近の私はグーグルアースのストリートビューで、本に描かれている街を同時進行で映像で見つつ疑似体験を楽しんでいます。このストリートビューはなかなかの優れもので、日本国内はもちろん世界の主要都市を車載カメラで写した実際の街並みを見ることができます。
 この本の中で著者が通勤に利用した路面電車が走る大通りや両側に連なる街並み、そして歴史的な大聖堂などの描写が、ストリートビューを介すると本の平面な文章から映像に変換されて立体化されるのです。それは単なる観光ではなく、著者の日々の暮らしや情景と一体化した追体験となり、時を隔ててあたかも自分自身もそこで生活しているかのような仮想現実感が味わえるのです。

これに味をしめて、これからも行きたい国のエッセイを脇に置き、著者と一体化した追体験を楽しむことにしましょう。さて、次はどの国にいきましょうか。国民性が好きなポーランドへでも旅してみますか。


 NO25                                                                              2016年1月10日

私の受傷後20年の回顧録

10年ひと昔というけれど、あれからふた昔の時が流れた。それは一瞬の出来事だった。渋滞中の高速道路で後続のトラックにノンストップで追突されたのだ。どのくらいの時間が経ったのだろう。気が付いた時には警察官や救急隊員の騒然とした中で助手席の床に座り込んでいた。朦朧とした意識の中で立ち上がろうとしても体はピクリともしない。生きてるぞ!!!、と叫んだ声が遠くに聞こえたことだけはおぼろげに覚えている。死んだものと思われたのか救出は最後にまわされたようだった。玉突き状態での5台が関連する大事故だった。

搬送された大学病院では頚椎損傷と診断され、手術は困難で危険ということで保存治療となった。分厚いカーテンに閉ざされ昼夜の区別もつかず、呼吸器などの機械音に占領されたICUで4日間過ごしたのち一般病棟に移った。身動きひとつ出来ず天井を向いたまま、触覚,痛覚,温度覚,位置覚などの感覚麻痺と全身が痺れる状態で、自分のゆくすえを漠然と案じながら半年余をこの病院で過ごした。その後、山梨県内のリハビリテーション病院で機能回復に専念した10ヶ月間のリハビリ。続いて帰宅に向けてのADLのための国立療養所での3ヶ月の訓練を経てやっと帰宅できた。受傷して一年半が過ぎていた。

そんなリハビリや訓練を受けて帰宅したにも拘らず、自宅での生活にまったく対応できない。なにひとつ自力でできることがないのだ。車椅子での移動や入浴、トイレなどバリアフリーな病院と違い在来工法の我家では車椅子での移動もままならない。リビングにベッドを据え、ポータブルトイレに座らせてもらい用を足す。人間の尊厳に関わる最低限の生活行為さえできない。入浴は訪問看護ステーションのお世話になった。入浴時の安全と妻の負担は軽減されたが、妻以外の人の手を借りなけれりば入浴もできない現実に、私の情けなさと惨めさはますます深まった。
 一年半後、バリアフリー住宅に転居して生活行為や車椅子での移動は楽になったが、受傷前の日常とはまったく違う現実と、それまで築いてきたすべてを失ったことで、やり場のない怒りと情けなさに、苛立ち、自暴自棄、薬物を探して自殺を企図するなど完全に生きる気力が失せてしまった。周囲の善意の言動さえも拒否していた期間だった。そんな状態が5年ほど続いた。

しかし、人は生きている限りどんなに悲観し絶望してもその状態を長期間続けることにも耐えられなくなる。5年という時の流れは少しずつ絶望の色を薄め、現実を受け止める新たな気力の芽を育ててくれた。そんな気持ちが前向きになった頃、脳梗塞で片麻痺になった母親を介護する知人が、その母親と一緒に行く一泊の温泉旅行に誘ってくれた。躊躇する私を横目に私の介助者まで手配して半ば強引に連れ出してくれたのだ。伊香保温泉にある某区の保養所にはバリアフリーの部屋が2室、浴場には車椅子型のシャワーチェアも備えつけられていて入浴もできた。夕食時には持参した洋酒を飲み、その後のカラオケでは酒の勢いを借りて唄いもした。障害者として初めての外泊。宿泊施設のなかにはこのような車椅子使用者でも泊まれる施設があることを初めて知り体験できた。この知人には心から感謝している。この体験がなければ現在のような主体的な行動はとれなかったかもしれない。やはり、最初の一歩はこのような強引ともいえる支援がないと踏み出せない。その後、伊豆にも誘ってくれた。この温泉旅行を経験したことで、勇気を出して踏み出せば健常時のような追体験ができることを知り、外出することに抵抗感がなくなった。

それからしばらくして、ネットで知り合った障害者グループが、学生ボランティアと行く韓国・釜山の旅に誘ってくれた。参加した私以外の車椅子使用者4名は私より重度の障害者で、食事やトイレにほぼ全介助が必要な人たちだった。そんな人たちが素直に自然体で介助を受けて行動する。話すことといったらこれまで行った外国のことや、これから参加するというホノルルマラソンのこと。彼らの行動を目の当たりにして自分の不甲斐なさと障害に対する甘えを反省した。このように自分以外の障害を持つ人たちの行動や生活を知ることはとても大事なことだと思う。この旅行は、私が障害者として生きる意識改革の原点となった。
 こうした支援や交流によって、しだいに主体的な行動がとれるようになった。電車や新幹線で出かけることはもちろん、車椅子で泊まれる宿を探して旅行したり、海外旅行も経験した。

こうした経験をもとに、2012年10月 「車椅子お出かけ応援サイト」 を立ち上げ、画像を多用した外出や旅行情報をインターネットで提供している。また、ネット環境にない方のために情報を編集した冊子も配布している。これらの情報を参考に外出や旅行に出かけられる方がいて、その報告や話を聞くたびに情報の重要性を痛感するとともに、やり甲斐と充実感が持てるようになった。一つの行動や作業は、次第に間口を広め次の行動や作業に進展していく。こうして現在では、フォーラムや各種イベントでポスター発表や口述発表をしたり、セラピストと協働のリハビリテーションに関する勉強会や車椅子使用者の自主グループである 「車いす散歩の会」 を立ち上げ、お花見会やバーベキュウ会といったイベントも主宰している。

振り返ってみると節目節目に出会いがあって、その出会った人たちの心優しい配慮や支援によって今の私がある。導尿カテーテルをクランプして膀胱を刺激し、自然排尿に道筋をつけてくれた大学病院の主任看護師。転院を促されても受け入れてくれる病院がなく困っていた時に、山梨のリハビリ病院への転院を橋渡ししてくれた大学病院のICUのドクター。そのリハビリ病院でリハの方針と、向かい合う心構えを指南してくれた当時山梨県理学療法士会の会長だった理学療法士。温泉旅行に引っ張り出してくれた知人。障害を持って生きる自覚を促し意識改革の原点とになった障害者グループ。特に、ネパールのポカラで子供たちの学習支援をする私より年配の生まれつきの脳性麻痺者はその生き様で、障害は閉ざされた闇の世界ではなく、その周囲には生きる希望に繋がるたくさんの扉があり、その扉を開くのは自分自身だということを教えてくれた。また、主体性獲得を支援してくれた外来リハの作業療法士たち。そして、障害者となって20年余、入浴介助と身体維持を親身になって支えてくれている訪問看護師の皆さん。こういった方々に出会わないと今の私はなかった。

上述のように、私は受傷後およそ5年間絶望の淵をさまよった。当時のことを思い返すと、ずいぶんと長い期間を立ち直ることもなく生きる屍として過ごしたものだと思うけれど、いま考えると、むしろ時間をかけて自分が普段考えることのなかった生と死の問題に触れることができたということで、それはそれで今の自分にたどり着くまでに必要な道のりだったのかもしれない。
 そんな苦悩の期間を含めて、私は自己再生を果たすことができた。未知の世界で、未知な事柄に出会うたびに、それらに対処することで未知の自分が引き出されていく。その積み重ねで新しい人生が構築されていく。これができたのは、ひとえに心優しいたくさんの人たちとの出会いによる。彼らの協力や支援、生き様をみさせてもらったことで、日々の生活の中に居場所や生き甲斐を見つけ、自己再生をはかることができた。そして、どんな小さなことでもそれが形となれば自己評価でき、その評価が次のステップへの原動力となって”新しい自分”が上書きされていく。こうして、日常生活で、あるいは地域社会で、障害は負の資質ではないと自覚できるようになると、更なる生活の豊かさや質の向上、人生の充実が実感できる構造を自ら構築できるようになった。 “障害があるという事実” は変えられないけれど、”障害のある人生” はいくらでも変えられるのだ。
 こうして私は今、健常時とは違った幸せの中にいる。これまでに出会ったたくさんの人たちには感謝の念がたえないし、これからの出会いも大切にしていきたいと思っている。


NO24                                        2015年8月8日

海外旅行 夢のまた夢だった時代

テレビがお盆休みを海外で過ごす人たちでにぎわう成田空港のようすを映し出している。混雑する人並みに混じって、自分用の小型キャリーバッグを旅慣れたようすで引く子供も見受けられる。今時は子供も海外旅行慣れしているようで、じつに自然体で緊張感などみじんも感じられない。私が子供のころは、国内旅行さえもままならない時代で、海外旅行など現実味のない夢のまた夢だった。海外旅行ができるのは、有名な芸能人や超お金持ちといつた一部の人たちに限られていた。青年期になっても、同世代のバックパッカーが世界を放浪した記事が新聞に取り上げられることもあったが、私はそんな勇気も行動力も持ち合わせてなくて、遠くから羨望する傍観者にすぎなかった。
 昨今、テレビをつければ世界を映しだす番組がいくつも放映されていて、世界がとても身近に感じられるようになった。先日、ケーブルテレビと契約していた長男が家を出る際に、その接続器をダイニングにあるテレビに接続してくれた。それによってBS放送も観られるようになったのだが、地上波以上にそういった番組が多いのに驚いた。風景ばかりでなく、そこに暮らす人々の生活の様子、文化、芸術までもが、臨場感とともに目に飛び込んでくる。まさに世界の隅々まで垣間見ることができる時代になった。
 テレビが一般的になった頃、はじめて海外紀行番組がお茶の間で見られるようになったのは、兼高かおるの「兼高かおる世界の旅」ではなかつたか。番組のテーマ曲は、ビクター・ヤングオーケストラが演奏する、映画「八十日間世界一周」のテーマ曲で、この曲自体もヒットして海外への憧れを助長させた。番組放送当初は為替レートが1ドル=360円で、かつ外貨持ち出し制限もある時代だった。だから、庶民にとってはこの番組経由で見ず知らずの国へ思いを馳せるしかなかったのだ。また、この番組のナレーションも担当した兼高かおるさんは、エキゾチックな顔立ちで知的、しかもバイタリティと好奇心にあふれた美しい女性で、青年期の憧れの的でもあった。
 後年、経済的に少しゆとりができた頃の初めての海外は隣国の韓国であった。時代はバブル最盛期のころで、仕事に疲れると時間を見計らっては訪れた。為替相場も1ドル90円ほどで、海外旅行の気軽さが劇的に変化した時期だった。その他の国は、乾燥地農学を勉強していたころに訪れたウズベキスタンで、受傷前の海外はこの2か国だけだ。これは同年代の海外渡航歴に比較するときっと少ないに違いない。これからいろんな国に行ってみたいと思っていた矢先の事故で障害者となってしまった。受傷後は韓国・釜山と2回のグアムだけだ。
 半世紀を越す時間の流れのなかで、文化、科学技術、経済の進展変貌は著しく、私が子供のころSFだった世界が現実となり、さらに日常となった。
 画面に映し出された子供たちにとって、海外旅行は特別なことではなく、行く先々の国の国民性や文化、自然が抵抗なく受け入れられて、大人になると世界が活躍の場になっていくのだろう。


 NO23                                         201577
                    時の流れのなかで・・・

 天気が良い日は気が向くと自宅周辺を散歩する。このあたりは開発された大きなニュータウンと古い時代の面影を残す区域が隣接していて、モダンな現代と昔の田園風景が同居している。
 その新しい町も、もとをただせば木々に覆われた深い丘が大きな波のようにうねっていたところで、その谷間を流れる細く曲がりくねった川の両岸に歯抜けのように点在する平地に、家々が細く軒を連ねているだけの寂しい所だった。
 そんな場所が二十数年前から開発が進められ、深い森は伐採と造成が繰り返されて、工事の進捗とともに荒涼たる造成地と化した。乾燥した季節の未舗装の工事用道路は、大型車両が行きかうたびにエンジンの唸りとともに土埃が高く舞い上って、規模の大きさと力強さを垣間見せていた。
 時を経て、その自然の生まれ変わりの町は、次第に加速度がついて息もつかせぬ勢いで風景を塗り替えていった。今ではJRの駅ができ、高層のマンションやおしゃれな戸建ての家々が立ち並び、小学校が3校、中学校が2校もある大きな町へと変貌した。

 そんなニユータウンの片隅にある小高い公園は、私の散歩コースのひとつだ。その公園の刈り込まれた草地の端に車椅子を止め、さえざえとした空を眺め、遠い山並みの稜線を目でなぞり、どこもかしこも真新しくつるつると落ち着きのない町並みを見下ろしては、どこか遠いところに心を預けているような浮遊した心持になる。目をほんの少し北に転ずれば、道路一本隔てて細長く畑が並び、その畑に沿って一筋の林が連なっている。取り残されたその風景が、かつての自然の面影をかろうじて残している。

 悠久の自然も抗しきれない力によって姿を変えたように、短い私の人生も抗しきれない出来事によって変貌した。風そよぐ公園の片隅で、とりとめのない思いが、水面に湧き出す水玉のように脳裏に浮かんでは消えてゆく。


 NO22                                       201566
                今はまだ道の途中

受傷後、障害を受け入れるために長い年月をついやしたが、現実を受け入れられるようになっても日々の生活の中ではやはり不自由さや不便さに悲観することもあった。そんな暗澹とした時間を繰り返して障害に対する意識変換ができ、やっと障害者として生きる覚悟ができた。それによって、いったん断ち切った健常な人生と、障害を持って生きる現在とが一つに繋がった。それによって、人生の道程に健常と障害という二つの状態が繋がってあるだけで、自分というアイデンティティはひとつなのだといういたって単純な事実が、やつと自分の中で認識されるようになったのだった。

こうして深い絶望と悲しみを乗り越えて手に入れた平穏と充足を、かけがえのないものと意識するようになってから、障害を自分のこれからの人生なかでどのように位置づけるのか、社会とどうかかわって生きるのかを、もうひとつ深いところで考え吟味するようになった。己の能力の範囲内で有意義で実行可能な取り組みを模索していきたいと強く思うようになったのだ。
 幸いにも、平穏と充足の気持ちのなかで、同じ障害を持つ人たちの役に立ちそうな取り組みができそうな予感が、灰色の熱泥がボコッボコッと沸騰する温泉のごとくに静かに湧き上がっている。この静かなエネルギーが持続している間に、具体的な取り組みのきっかけを築くことができればと思っている。
 障害者となってからは健常時の友人知人との交遊は途絶えてしまったけれど、お互いにどことなく障害を意識してぎこちない付き合いをするのも気苦労だから、それはそれでよしとして、障害者として生きる価値を見出そうとしたこれまでの取り組みによって、新たな出会いが生じ、その交流によって自分の内面を改めて見つめなおす機会を得たことで、新たな人生の充足につながる気配と方向が見えているのはありがたいことである。
 人生を自分なりに満ち足りたものにするのに障害のあるなしは全く関係がない。人生はやはり自分で切り開くものなのだ。その出会った人たちの知恵を借り、支援を受けながらながら残りの人生を自分なりに満足できるものにしていかなくてはならない。今はまだその途中。


 NO21                                      2015517
                   アマチュア オーケストラ

 知人からチケットをもらって、アマチュア オーケストラ のコンサートを鑑賞した。彼女がかつて所属していた某大学管弦楽団のスプリングコンサート。深い感銘を受けた。
曲目はシベリウスの交響詩フィンランディア、モーツァルトのファゴット協奏曲、ベートーヴエンの交響曲第7番イ短調。クラシック音楽に馴染みがあるわけではないけれど、胸を打つ演奏に触れた時の感動はなにものにも代えがたい。テレビやCDでは再現しきれない、ホールに響く生音と若いエネルギーの迫力はその空間を揺さぶる。
 学生オーケストラなので当然プロとの技量の差はあるけれど、アマチュア独特の良さも感じられる。団員のおのおのが、練習の成果と自分たちの実力をすべて発揮しようという気迫がステージにあふれているのだ。チケットくれた知人もOGとしてその演奏に参加していたのだが、彼女はこの大学のOBOGで編成するオーケストラにも所属しいて、昨年その定期演奏会も鑑賞した。こちらのメンバーは生業を持つ社会人。仕事の合間に練習を重ね、年に数回の演奏会に全力を傾ける。仕事以外に自分を表現できる場を持ち、会場にいる人たちに深い感動を与える。なんと素晴らしいことだろう。仕事と両立させる人生の彩がそこにある。

 欧米に比べクラシック音楽が生活に根付いていないとされる我が国だが、実は隠れた「オーケストラ大国」であるらしい。日本オーケストラ連盟には33のプロ楽団が加盟している (2015年現在)のに対し、アマチュアオーケストラ連盟には市民オーケストラを中心に、その4倍以上の139楽団が加盟する。学生オーケストラなど未加盟楽団を含めると、オーケストラは全国で1000以上あるのではないかといわれているそうだ。

これまでは、高校生の吹奏楽の鑑賞がほとんどで、若い人たちの力みなぎる演奏に元気をもらっていたが、大学生や社会人が奏でるオーケストラは落ち着きと重厚感があり、大人の雰囲気が楽しめる。今月末には同じ会場で市民オーケストラの定期演奏会が開催される。都合がつけば足を運んでみよう。また貴重な体験ができるかもしれない。


 NO20                                       2015404 

不吉なコジュケイの啼き声

 夢うつつに聞こえてくる。川向こうの竹林からだろうか、「ちょっと来い、ちょっと来い」とコジュケイが甲高い声で啼いている。まだ朝も明けきらないベッドのなかで、懐かしさとともに不吉なその啼き声を聞いて肩にちからはいる。

 父方の祖父母は、山の緩やかな斜面の、畑や田んぼのなかに森が点在する田舎に住んでいた。小学校の低学年の夏休みに、私は両親に連れられてその祖父母の家に行った。刺すような夏の日差しの中を、駅から舗装もされていない曲がりくねった坂道を30分ほど歩き、畑のあいだの道をすこし進むと祖父母の家があった。引き戸の玄関を入ると三和土(たたき)の土間、その土間の先には框の高い板張りの居間、土間から座敷の前の裏庭につづく通路には米や麦を蓄えておく大きな金属製の筒があった。勝手口の外にはつるべ落としの井戸と五右衛門風呂の小屋があった。その三和土の土間には日用品や収穫した野菜などが散在していて、農家らしい青臭い匂いで満たされていた。我家とは違った匂いだった。

そんな家の前には畑が広がり、その奥に孟宗竹が混在する暗い森があった。ある時、その森の中からコジュケイの甲高い啼き声が響いてきた。その啼き声を一緒に聞いた祖母が、「ほら、ちょっと来い、ちょっと来い、とコジュケイが啼いている。いい子にしないと、コジュケイに森の奥に引き入れられるぞ」 と嫌味と恐怖を含んだ言葉で脅した。たまにしか会わない怖い祖母の言葉は、幼い胸に突き刺さった。

それ以来、大人になった今でもコジュケイの啼き声は、ちょっと来い、ちょっと来いと、その時の思い出とともに暗闇に引き込む呪いのような不吉さを誘発し、その後ろに祖母の影がフラッシュしたりする。

 長い期間、そのコジュケイの啼き声を聞くこともなかったけれど、最近になって、夜も明けきらぬ早朝に聞くようになって、布団の中で身を固くしながら遠い記憶と戯れている。


 NO19                                      2015111 
                          陽だまりの中で・・・

買い物から帰った妻が開口一番、いい天気だけど空気が冷たい、と肩を丸めて言う。私はリビングのガラス越しに差す陽だまりの中に車椅子を止めて、ぼんやりと外を眺めていた。川向こうの畑の土手に生えた背丈の低い雑木が、吹く風に荒々しくと葉を躍らせている。その光景を見ただけで寒さが伝わってくるのだけど、ガラスを透過した暖かな日差しは、そんな光景とはうらはらに真綿に包まれたように我が身を芯から温めてくれる。
 ふわふわしたそんな陽だまり中でまどろんでいると、38年前に死んだ父のことがふっと頭をよぎった。酒飲みで頑固で厳しかった父は、65歳のとき肝硬変で死んでしまった。死ぬ前夜、私は病院の父のベットに寄り添った。

厳しかった父だったが、私にはほんの少しだけ優しくしてくれた。戦後の貧困がまだ影を落としていたころ、グローブを買ってくれたことがあった。小学校の高学年のころには自転車も買ってくれた。ただただ頑丈で格好も良くもない、黒塗りで大人用の実用自転車だったけれど、その自転車で馴染みのない町を散策したり、市外の町まで遠出をしたりしていた。日常とは違った町並みや風景に胸をわくわくさせたものだった。大人になっても自転車が趣味だったのも、それが影響していたのかもしれない。
 そんな少年期も今は遠い思い出になってしまったけれど、私は今、その父が亡くなった年齢をすでに越えてしまった。我が長男も、その父を亡くした時の私の年齢を過ぎている。親が子を思う気持ち、子が親を懐かしむ気持ちが交錯して、果たして我が子は私にどんな父親像を持っているのだろうか。とりとめもなく我が身を振り返っている。
 陽が西に傾き陽だまりの範囲が狭くなって、布団をはぎ取られたような寒さを感じて覚醒した。陽だまりの中で、ひと時の白昼夢。


NO18                                      20141224
                      音楽のちから

 高校生たちが日々練習を重ね、その成果を披露する姿は、聴衆を大いに感激させる。市内の高校18校と小学校1校、中学生の合同バンドが一堂に会した吹奏楽フェスティバルに行ってきた。
 十数名の部員で活動する高校もあれば、百名を超す部員を擁し全国に名をはせる高校もある。部の大きさや演奏技術に差はあるにしても、楽器に向い、音楽に打ち込む姿は素晴らしい。特に印象に残ったのは小学校の吹奏楽部の演奏だった。過去にも聴いたことがあるのだが、3年生から6年生の部員で構成され、演奏もなかなかのもので、とても小学生とは思えない、以前にもまして感嘆する演奏だっだ。都内の小学校の音楽コンクールでも入賞するらしい。

 人生の終盤に差し掛かると、目標とか希望とかは特になく、ただただ日々を平穏に過ごせればそれでい良しとしがちだが、こうした若い人たちが頑張っている姿は大いに刺激になって、このままではいけないのではないか、何か打ち込めるものを探さなくては、なんて気にさせてくれる。音楽に限らず何かに打ち込む若い人たちの姿や情熱は、感動と頑張ろうという力を与えてくれる。

 クリスマス直前ということもあって、クリスマスソングを演奏するバンドもあって、一足先にクリスマスの雰囲気を味あうこともできた。なんだかすがすがしい一日だった。


  NO17                                      2014127

さりげない気遣い

 昨日、ある障害に関するセミナーに参加した。私とは違った障害のセミナーで、当事者の発表もあった。自分と違った障害者や家族が、どのように障害を乗り越え、どのように日常生活に対処しているかといった発表は、とても参考になるものであった。

 一口に障害者といっても、障害をもたらした原因や疾患は様々で、その症状も多岐にわたる。その医療的対応は違ってくるのだが、障害を持った当事者が、それぞれの障害と向き合い、地域で生活してゆく過程における苦悩と葛藤には共通したものがある。その苦悩や葛藤を乗り越えるためには、家族や周囲の人たちの多大な協力や支援が必要だが、基本的には本人の生きる力と主体性なのだろう。

 ホテルで開催されたこのセミナーには一人で参加した。この時期なのでジャンバーを着用して出かけたが、会場では脱がざるを得ない。誰かに頼まなければならないのがちょっと気になっていた。ところが知り合いのOTさんがスタッフとして会場にいたので自然な流れでジャンパーを脱がせてくれた。見知らぬ人には頼みづらかったので安堵した。そのうえ彼女は、ホッチキスで留められた数枚綴りの資料の右下角を、捲りやすいように一枚づつ大きさを違えて折り曲げてくれた。お蔭で講演の進行にしたがってページを捲ることができた。OTと患者の関係だとしても、このさりげない気遣いは胸に沁みた。

 人はみんな最初から孤独なのだと思う。だからこそ、人が恋しくなったり、人の温かさが胸に沁みるのだろう。その温かさに触れた時、自分の胸の内にも優しさが宿る気がする。


 NO16                                      2014119
                  窓枠の中の借景

 朝、新聞を読み終わった後、ぼんやりと外を眺めた。リビングにある東向きの窓からは、隣接する小学校の校庭と、その奥にある小さな神社の杜が見える。小さな神社のわりにはその歴史は古いようで、杜の木々は大木である。今が盛りと黄葉した欅や銀杏と常緑の杉の濃い緑が重なった樹冠が、グラデーションとなってさえざえしい空に弧を描いている。窓枠に納まったその風景があたかも一枚の絵画のようで、しばし見入ってしまった。

 ここ2週間ほど体調を崩し、受診したり点滴に通いつつ、寝たり起きたりの日々を過ごしていた。回復に向かっているが、以前の状態にはまだ戻っていない。高齢での体調不良は行く末の不安を掻き立てるが、障害を併せ持つ身はさらにそれに拍車をかける。

 晩秋を華やかに彩る木々は、やがて灰色の影の世界へと変わっていく。その侘しさと我が身が重なって一瞬もの寂しい気分に陥ったが、雄大さはなくともリビングの窓枠を額にした絵画のような借景に少しだけ元気をもらった。


 No15                                       20141014日

黄赤色の実

深まりゆく秋。色づきはじめた柿の実が鮮やかさをまして、濃い緑の葉の中でその存在が目立つようになった。我家の狭い庭の片隅に植えた柿の若木が、20個ほどの実をつけたので日々その色の変化を楽しみに眺めている。

私は果物の中で柿が一番好きだ。硬い柿は噛むほどにじんわりと甘みが出てくるし、熟した柿は口にするなりとろけて甘みが口いっぱいに広がる。しかし最近、歯の具合が悪く、硬めの柿には手が出せなくなってきている。スーパーで買う柿もやわらかめのものを選んでもらっている。

柿といえば誰しも「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」という俳句がたちまち浮かんでくるが、その正岡子規も無類の柿好きだったらしい。好きでなければこういった句は詠まないだろう。樽柿(渋抜きした柿)を一度に7、8個食べるのが常で、入院療養中にも食べたという。好きな食べ物や飲み物は体調が不調であっても口にするものなのかもしれない。私もよほどの体調不良でない限り酒は吞む。

子規が奈良を旅した時代の法隆寺界隈は、まだいにしえの山里の雰囲気が色濃く残っていたと思われるが、柿ほど風景にマッチした果樹はないのではないか。黄赤色の実をたわわにつけた柿の木が、茅葺屋根に寄り添うように立っている風情は日本の秋の原風景。

私はというと、子供の頃、祖父母が住む山里で、他家のサツマイモ畑の真ん中にあった柿の木に登り、実をもぎ取ろうとした瞬間落下し、畑の畝に叩き付けられた。その一部始終を台所の窓から見ていた畑の持ち主のおばさんが、怪我を心配してそのことを祖母に告げたようだつたが、私は祖母にこっぴどく叱られた。柿の季節になると思い出す痛くほろ苦い遠い思い出。そう、私は子供の頃から柿が好きだった。


 NO14                                       2014年9月28日

私の旅のスタイル

私は、子供のころからあちこち動き回るのが好きだった。障害者となった今でも、よほど遠い距離でなければ電動車椅子で出かける。通いなれた道でも飽きることはない。道行く人に同じ人はいないし、咲いていた花も散っている。同じ組み合わせは二度とない。そこがなんとも面白く魅力的で飽きないのだ。

 電車に乗っても窓の外を眺めているだけで、いつまでも飽きない。電車を利用する時は混雑していないかぎり行きと帰りとでは車椅子を止める場所を変える。車窓を早いスピードで流れる一瞬の風景の中にも、時が止まり生活が見えるのだ。猛スピードで移動する新幹線に乗っていても同じで、一瞬一瞬の静止した風景が、パラパラマンガのように連続しているだけのような感じになる。自分が今いる場所が一瞬にして違う場所に移る。こういう時、時間は場所だ、とつくづく思う。ただ、新幹線で残念なのは、車椅子で使用できる多目的室は決まった場所で座席も固定されていて、車窓の風景が行きと帰りでは逆方向に流れるということ。

 「車椅子お出かけ応援サイト」が、交通機関やお出かけスポットがメインになっているのも、この”好き”が影響している。趣味趣向は人それぞれで、楽しみ方も多岐にわたる。はたしてこのサイトが外出や旅行好きな方にどれほど役立っているかうかがい知れないが、まぁ、ほとんど自己満足のためにやっているようなものだから、ごくごく少数の方に参考にしていただけるだけでもありがたいと思っている。

近隣への外出に限らず泊りがけの旅行でも、私は同じ場所へ何度となく出かけていく。人に、感動する景色や面白い場所はたくさんあるのに・・・といわれるが、知らなかった町がしだいに馴染みの町になり、そこに暮らす人たちの日常と同化していくような感覚が生まれる。それと同時に、その町の地図が頭で出来上がっていく。

何度行っても季節が違えば見える景色も違い、建物は同じでもそこに出入りする人が違うし、服装も違う。行きかう見知らぬ人たちのちょっとした会話の中からもこの町の今が知れ、日常生活まであれこれと想像したりする。そうして私も住民の一人になれるのだ。

そうして私は、たまにテレビで映しだされる新住民となった地方の街並みを、頭の中の地図上でなぞったりして楽しんだりしている。これが私の旅のスタイル。


NO13                                       2014年8月18日

鳥  害

近年、中山間地域などで、シカ、イノシシ、サル、ハクビシンなどの野生動物による農業被害が深刻化・広域化しているといい、その現状がテレビなどで報道される機会が多くなった。地方によっては被害額が10億円以上に及ぶという。そのような被害が大きい地域では、高齢化や被害防止設備の経済的負担が重荷になりったりで、耕作放棄する農家も多いのだそうだ。野生動物の領域にまで迫った開拓が原因だと言われているが、人間の都合によって共生・共存のバランスが崩れた結果だろう。

とはいうものの、丹精込めた農作物が収穫間近に鳥獣に喰い荒らされることほど悔しいことはない。丹精込めて育てた作物が収穫できることでそれまでの苦労が報われるのだから、生産意欲が減退するのもうなずける。

我家の猫の額ほどの庭で、4年ほど前からデラウエアを育てている。それなりに手を加えて昨年は甘くて美味な実をつけた。今年は昨年の倍以上の実をつけ色づいて、来週あたりには収穫できるかと楽しみにしていた矢先、そのほとんどをヒヨドリに喰い尽されてしまった。3日ほど前からピーピーッと鳥の鳴き声が聞こえていたのだが、昨年は被害がなかったので気にもとめなかった。まさかブドウが喰われていたとは・・・。気づいた後しばらく観察していたら、器用に実を啄ばんでいた。デラウエアの実の大きさが、くちばしで挟むちょうどよい大きさなのだ。それをそのまま丸飲みしている。それでも、体の不自由な私は追い払うことができない。

 一粒残さず喰い尽くされて房の芯だけになった光景は、お見事と感嘆する反面、何とも憎らしく怒りが沸き起こってくる。庭のブドウだけでこんなに悔しい思いをするのだから、労苦を重ねて生産する農産物が無残に喰い荒らされると、その憎らしさ悔しさはいかばかりかと思う。

 来年からは、実が色づく前に袋がけして対策するつもり。ささやかな楽しみを、こんなことで空しくさせられるのは御免だ。


NO12                                         2014年7月24日

揖保乃糸

 小高い丘から見下ろす町は、夏の光の中で気怠く横たわっていた。町を2分するように流れる川が、かろうじてささやかな清涼感を漂わせいている。ここは「播磨の小京都」といわれる兵庫県たつの市。その流れは揖保川。

 丘を下って町へ出た。観光駐車場に車を止めて散策する。旧市街地は龍野城の城下町の雰囲気をそのままに武家屋敷や白亜の土蔵、黒板塀が今も残り当時の面影を漂わせている。日曜日というのに人の動きはまばらで、時折、貸自転車で散策するカップルや首からカメラを下げた観光客を見かける程度でやけに閑散としている。

 たつのは戦国時代を経て、200年に及ぶ脇坂氏の治世ののち維新を迎えたようだが、龍野城周辺はその脇坂氏末裔とおぼしき邸宅が昔の面影を保存しつつ立ち並んでいる。
 そんな静かな城下町でありながら知名度の高い産品もある。日本を代表する手延べ素麺の「揖保乃糸」と「うすくち醤油」だ。また「天使のはね」のランドセルを製造するセイバンも当地に本社があるという。

 観光パンフレットを片手に散策の途中、お城近くの小さなお店に行列があった。同行した妹曰く、先々週テレビの「人生の楽園」という番組で放送された「霞亭」という素麺処だという。話のネタにと、膝に故障がある家人と透析中の長姉が列に並ぶことになって、私たちは散策を続けた。麺のつけ汁となるのは醤油。冷房が効いた醤油資料館で、製造工程のビデオを観ながら、焼けるような夏の陽に火照った体を休めた。

 旧市街を一巡して戻ると間もなく入店できる時であった。折り畳みの杖をセットし手を貸してもらって框の高い室内へ入った。旧家を改造したそのお店は小さいながらも純和風で、天井の梁や柱は重厚で、テーブルも無垢の木造りであった。聞くと、父親の高齢により2000年に閉店したお店を、教員だった娘の女将さんが定年退職を機に再開したお店だという。
 冷やしそうめんを注文した。注文を受けてから作るというので少々の時間を要したが、竹を半割にした容器に盛られたそれは清涼感にあふれていた。麺の上には細切りの椎茸の甘露煮と金糸玉子がトッピングされ、小さな笹の穂先がさりげなく添えられている。麺を一箸口に運ぶ。冷たい麺が喉を冷やしながら滑り落ちていく。うすい色にもかかわらずコクのあるつけ汁。そうめんとその汁が一体となって何とも美味。思わぬ所で話のネタを拾った。

http://wheelchair-outing.a.la9.jp/002-s.jpg たつの市は初めての訪問だったが静かで落ち着いた歴史漂う町で好印象をもった。同市と同じように名産品がありながら今一つ知名度が上がらない地方都市はたくさんあるだろう。地方の衰退が懸念される中、情報発信にひと工夫あればもっと知名度が上がって町おこしに繋がるかもしれない。頑張ってほしいものだ。

それにしても猛暑の中でいただく冷やしそうめんは最高でした。

 

 NO11                                        2014年7月6日
                ネパールからの手紙

久しぶりにネパールから手紙が届いた。送り主はネパールのポカラで子供たちの教育支援をしている岸本氏だ。氏は生まれつきの脳性麻痺者で車椅子使用にもかかわらず、世界を旅し、最後に行き着いたネパールで20数年前からその取り組みをおこなっている。当時のネパールは王制の独裁的政治体制の国で、国民の貧富の差が大きく、貧困層やカースト、遠隔地などの初等教育対象に達した3分の1ほどの子供が、就学しないで家の手伝いや町にたむろしている現実を目の当たりにして、そんな子供たちのために何かがしたいと小学校の建設を決意する。そして詩集を出したり、寄付を募ってたりして資金を集め、岸本学舎の建設にとりかかる。

 私が氏を知ったのは、15年ほど前の氏のその取り組みの新聞記事だった。当時の私は受傷後の絶望と無気力からどうにか前向きになりかけたころで、世の中にはこんな車椅子の障害者もいるのかと驚愕した。思い切って新聞社に電話し、連絡先を教えてもらってから氏との交流が始まった。それ以来、心ばかりの支援を通じて氏との交流は現在に至っている。

 現在のネパールは王制が崩壊し民主化されて、以前よりは公立学校の数や設備、教育内容も向上し、児童の就学率も高くなっている。岸本学舎で学んでいた子供たちも公立小学校へ通うようになって初期の目的は果たされたようで、最近、学舎は閉鎖された。しかし貧富の差は相変わらずで、現在は学用品などの支援に移っている。

 手紙にはそんな子供たちに囲まれた氏の写真が必ず一枚は添えられている。
学舎の卒業生たちは、その後も氏に敬意を払い慕っている。結婚式にも呼ばれているようで、その様子の写真も同封されていたこともあった。これは氏の熱意と信念によってもたらされた国境を越えた絆である。
 しかし氏も高齢になり、身体的衰弱も重なって、手紙に弱気の気持ちを書き記すようになった。人の身体には限界がある。意欲や努力にも限界がある。区切りをつける時は必ず来る。無理をせず己の心身もいたわってほしいと願うこの頃だ。

 氏からは”生きる”ということを教わった。どんなに身体に不具をかかえようと、信念をもって自分なりにできることは必ずある。それができれば自分がこの世に生きた価値が見いだせる。”強い精神は肉体を超える”というこを教えてくれた。

 私はこれまで、ほかにも幾人かの障害を持った人たちと出会った。そして、その人たちの生き様は無言の励ましとなって私を支えてくれた。出会いに感謝だ。


 NO10                                       2014年7月3日

山派?それとも海派?

 雨上がりの朝、濡れた木々の緑が弱い光のなかで、さらにその色を濃くして、鮮やかに目に飛び込んできた。それは胸に深く滲んで、自然が織りなす偉大さを感ぜずにはいられない。この感覚はいったいどこから来るのだろう。
 なんとはなしに家人に、海と山ではどちらに癒されるか聞いてみた。家人は山だといった。結婚前、夜行日帰りで丹沢に登ったのだが、その後2日間会社を休むほどの虚弱な体力ながら、そう答えたのにはちょっと驚いた。

 確かに、山並みや樹林は日常的に見かける風景で、季節折々にその風情や色彩を変える。また気象によっても微妙に違った姿をみせて我々の目を楽しませてくれる。加えて人類の歴史をみても、そのほとんどを山や森の中で獣や木の実といった食物を得て命を繋いできた。山野は普遍的な生活の場でもあった。そんな人類の普遍的な生活の中の原風景に癒されるのも当然のことと思われる。

 私はというと、若いころは山登りも機会あるごとに楽しみ、自然が織りなす雄大さに感銘を受けたりしたが、癒されるという点では海の方だ。山に比べて季節ごとの風景の変化には乏しいが、絶え間なく打ち寄せる潮騒とその上に広かるでっかい空。その空と水平線が接する奥深いところに未知の世界があるような浪漫に心が引き寄せられるのだ。白昼夢に誘われ気持ちが解放されるのだ。

 山や森は果てしなく遠い時代から人類の存続を支えた原風景。一方、海は地球上のすべての生物の起源の場だ。人類が属する哺乳動物は、胎内に生命を宿すと羊水の中で育まれその歴史を繋いできた。つまりDNA的には海ということだろう。

 さて、あなたは「海」派? それとも「山」派? まぁ、どちらにしても人類は自然に育まれ、癒されて生きながらえている。かけがえのないこの自然をもっと大切にしたいものです。


 NO9                                       2014年6月22日

雨の朝に思ったこと

 朝食を終えて、ぼんやりと外を眺めた。降りそそぐ絹糸のような細い銀色の雨が、風に吹かれてオーロラのように揺らめきながら流されてゆく。
 ウッドデッキの床板には雨が幕のような薄い水たまりつくって、そこに小さな銀色の滴がぱちぱちと絶え間なく降り落ちている。そして一瞬のうちに小さな波紋を広げて消えてゆく。

 話芸の達人といわれた徳川夢声が、雨の滴が池に落ちるようすを眺めて 「天の神が、地球の歴史を高速度でみると、人間の一生なんて雨のしずくと同じように見えるかもしれない」 と日記に書いていることを、本だったか新聞のコラムだったかで読んだ記憶が頭をよぎった。

 それと同じような情景がそこにあって、それを眺めながら人の死について考えた。どんな苦悩や苦難の渦中にあったとしても、また寿命をまっとうして迎えるにしても、その死の恐怖から人は容易には逃れることはできない。

 しかし、雨の微小な滴が小さな波紋とともに一瞬にして消滅するのと同じように、自分の死を客観的に見ることができたら、そして、私が死んだとて、みんな私がいないことを気にしないし、日々はいつものように過ぎてゆくということを、また人類の有史以来無限に繰り返されてきた普遍的なものとして認識できたら、死は特別なことではなくなるだろう。
 また、死後のことも考える。死で物理的な存在はなくなっても、誰かが私の動作、話ぶり、癖、感じかた、考え方、といった人となりを明らかに覚えている限り、私はその誰かの記憶の中で生き続ける。灰になった後でも、その人の記憶が脳裏の片隅にでも残っている人がいる限り生き続ける。そして、その最後の一人が死ぬと同時に、私も決定的な死を迎えるのだろう。
 死してもなお記憶として生き続けるということは、善しも悪しきも生きている間の己の人間性が波紋のように、周囲や出会う人たちの脳裏に波及するということ。

 遅きに失した感はあるが、このことを胸に刻みつつも、肩ひじ張らず、大らかな気持ちで残りの人生を歩いてゆこう。それができれば、平常心で自分なりに納得できる最期を迎えることができるかもしれない。

 そんなとりとめのないことが、走馬灯のように頭のなかで回転する。雨の滴は相変わらずぱちぱちと小さな波紋とともに一瞬にして消え続けていた。


 NO8                                       2014年6月4日

偶然の再会

 最近、私が読んでいる本は、作家に限らず科学者や芸術家などの随筆集だ。日常のありふれた情景や出来事、思いなどをそれぞれの視点で洒脱な文章で綴っいる。そこには気取りもなく、我々とさほど変わらない日常のひとコマを切り取っている。そこに魅力を感じるのだ。

 ところで、今読んでいる五木寛之の随筆集のなかに、古代ギリシャの医学の祖といわれるヒポクラテスのことが書かれていた。このヒポクラテスという文字をみた瞬間、半世紀ほど前の若かりしころが一瞬にして蘇った。

私は高校を卒業後、経済的な理由と学力不足で大学進学をあきらめ金融機関に就職した。金融機関というところは学歴社会で当時の支店長は東大出身。男性行員の半数以上も大学卒という状況だった。また行員各人の定期預金の獲得高が毎月グラフで張り出されるなど業務的にもすごく厳しかった。今はどうか知らないが、当時の銀行は世間的評価が高いエリート的な就職先だったが、私はそういった内部の厳しい現実に打ちのめされ、精神的にも追い込まれていった。それでも1年半ほど勤め、少しばかりのお金を貯めつつ、並行して大学進学の準備をすすめていた。
 大学入試の半年ほど前に退職して予備校に通ったのだが、そこでの英語のテキストがヒポクレイトの「養生訓」だったのだ。人生で学ぶべき一番重要なことは、いかに生きるかということで、そこには幾多の痛みや困難があるし選択も迫られる。その中で一番難しいのは判断することだ、といった一文で始まり、人生を生き抜くための健康や気持ちの持ちようを示した指南書のようなものだった。そんな内容に社会人を経験していたのですごく感銘を受けたし、青春期の苦悩の中でなにより人間としての生き方を示唆してもらったような気がした。

そんなことがあって、ヒポクレイトには人並みならぬ愛着がある。今でもその冒頭の一文はそらんじることができる。人にはそれぞれ自己改革のきっかけとなったものがあるだろうが、私の自己改革の第一歩はまぎれもなくこのピポクレイトの「養生訓」であった。

 この時の人生の切り替えを起点として、反省は多々あるものの、深く後悔することもない人生をどうにかこれまで歩んでこられた。そして今、思いがけないこの随筆との出会いによって、青春の一ページを思い返すとともに、思いを新たにしているところだ。


 NO7                                       2014年5月23日

改めて「生きる」を考える

 私はこれまで、障害者がその障害を乗り越え、新たな人生の価値を見出し、それぞれの分野で活躍している姿を、本や新聞記事、あるいは人づてに聞いたり見たりして知ってきた。すごい人たちがいるなぁ~と感心はしつつも、それらの情報はオブラートに包まれたような間接的なもので、直接に感情が揺さぶられたり、自己再生のエネルギーにつながるものではなかつた。おそらく人の感情を揺さぶるような話は、当事者から直接、生の声で聞く以外にないのだろう。

 先日、身体障害をもつ当事者とセラピストの交流会へのお誘いをうけた。私以外の障害を持つ当事者が4名、セラピストが4名、セラピストの卵が1名であった。彼らは作業療法士の世界大会で、市民公開講座をする方々で、その打ち合わせ後のメンバーの一人の誕生日会を兼ねた飲み会にお誘いをうけたのだ。
 そんな大きな国際大会で公開講座をおこなうようなアカデミックな人たちの集いであったが、お酒を飲みながらの懇談のなかで、そんな方々さえ、障害者となった誰しもが通る苦悩と絶望のプロセスをへての「今」 があるのを知た。そのうえで、それぞれが仕事と並行して、障害に関する啓蒙活動などの取り組みも行っている。実に志の高い積極性と行動力のある人たちだ。

 その懇談の自己紹介の中で、そのうちのメンバーの一人が、「障害者になってよかった」と言い切るのを聞いた。実際にそう言い切れる人がいるんだと、目の前にいる人の口から発せられたその生の一言に、今までにない感情の震えを覚えた。そう言い切れる自信と信念はいったいどこからきているのだろう。どういう方法で枯れかけた生命をいきいきと復活させることができたのだろう。

 それについての詳細は聞けなかったので、私なりの忖度をしてみた。思いがけず負った障害の苦悩と葛藤の中で、残された身体機能を使って、何ができるのか、どう生きるべきかを模索しつづけて得た小さなきっかけを大事に育てた結果、獲得できたのが現在の生活と生き方で、そこに健常時とは違った大いなる生きがいと充実感を見出したからだろうか。
 あるいは、生来の強靭な精神力と明るい性格そのままに、障害者になっても健常時の延長線上に自分を置いて、一貫して人生をたくましく開拓してきた結果が「今」なのかもしれない・・・などと。
いずれにしても、この境地に至りえる人は、障害を持つ多くの人の中でもほんの一握りの人たちだろう。

私はというと、けだるい日常生活の繰り返しの中で、「車椅子お出かけ応援サイト」の運営が生活にハリを与え、生活の質を高める要素にはなってはいるが、いまだ自己再生の道は手探りの状態で方向性さえつかめずにいる。
 なんともやりきれないが、しかし、生きている限りはそこから脱却して、少しでも意義ある人生にしていかなければならない。過去の自分や他人と比較することなく、現在の残存機能と能力で何ができるのかを模索し探究しつづけるしかないのだろう。そうすることで何かがつかめて、それを実行することで次の展開が見えてくる。そうして次第に広がった間口がさらなる展開につながっていく。
 そんな流れをつくることができれば、生きる励みになって、境地にまでは至らなくとも、障害が負の資質だという意識からは抜け出すことができるのではないだろうか。

よたよたとした歩みでも、一歩一歩自分なりの道を作っていくしかないのだ。明日の自分のために・・・


 NO6                                       2014年5月14日

自主トレのお伴は・・・

 私もその内の一人だが、団塊の世代といわれる人たちがリタイアしたころから、その人たちがすごした青春期に流行った、あらゆるジャンルの音楽CDが10枚組とか12枚組のセットで販売される新聞広告を見かけるようになった。現在の日本の人口年齢比では最大を誇り、購買力もある団塊世代をターゲットにしての広告だろう。新聞のまるまる1ページを使った広告だ。

 そんな広告の中に、私が青春期によく聴いていたジャンル (特に欧米のポップスやフォークソング、馴染みのあるクラシック) の広告を見つけると切り抜いて、そのセットの各枚に収録されているよく聴いていたり聴き覚えのある楽曲を、You Tubuからダウンロードしている。広告の商品は高額なうえ、好きでなかったり聴き覚えのない曲も入っているので、セットで買うほどではない。ダウンロードした曲を自分なりに編集してCDに焼く。以前にもこの方法でCDに焼き付けていたのだが、無作為でジャンル別の整理ができていなかったので、こういった広告は整理上大変利用価値がある。

 高音質ではないかもしれないが、素人には十分聴ける音質だ。こうして作製したCDは自主トレ時のBGMとしてコンポで流している。怠けるとすぐに身体の硬直と機能低下につながる身には、自主トレが欠かせない。そんな強迫観念のなかで黙々とする自主トレは、精神的にもかなりしんどい。自分が編集した好みの音楽を聴きながらだと、そんな強迫観念も和らぎ、ゆったりと、くつろいだ気分で自主トレができ、ストレスの解消もできる。今でも自主トレが持続できているのはこの音楽の効果かもしれない。

 こうして身体的な機能はどうにか維持できているのだが、最近、気がかりなことがもう一つある。
私は六十を過ぎてから、しばしば独り言をいうようになった。自室で独り過ごすことが多くなったせいだろうか。大概の日は家人と二言三言の用件以外は声を出すこともなく過ぎてゆく。そんな日が長くつづくと、たまの知人との会話で呂律が回らなかったり、言わんとする言葉がでてこなくなったりする。この頃は自分でも驚くほどの大声で独り言もいうこともある。そんな時は「俺って大丈夫か?」と自問するほどだ。かなりヤバイかも。はたして、こちらのほうの対策はいかがしたものだろうか。音痴で汚い声を張り上げて唄うのも近所迷惑だし・・・


 NO5                                        2014年5月5日

大和は国のまほろば

 もえぎ色の木の葉が雨に濡れて、やわらかな緑の輝きをいっそう鮮明にしていた。
そんな木立に囲まれて、悠久の時を経てたたずむその伽藍は、重厚さの中に時代と隔離された閑寂な風趣にみちていた。ここは奈良の法隆寺。

 奈良は、次男が中学一年生の夏休みに二人して自転車で西宮まで旅したおりに、三重県側から通り過ぎた地。あれから二十数年。今回は、週に三回も透析に通うようになった大阪に住む長姉を見舞ったあと、長男が運転する車で、逆方向から奈良を横断した。
自分の人生を振り返るような年齢になると、歴史にも関心をよせるようになるようで、その際に立ち寄ったのがこの法隆寺だ。

奈良といえば、卑弥呼の邪馬台国から仏教文化華やかりし飛鳥時代へと、国史発祥の地である。
法隆寺は用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したがほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子がこの斑鳩の里に完成させた、という。仏教は、文化とともに宗教として人心のよりどころでもあったのだろう。権勢の誇りと財力で「困ったときの神頼み」的な一面もあっての建立なのかもしれない。そうならば実に人間らしい。

それにしても、どうしてこんなに山々が幾重にも重なった幽深な地が都に選ばれたのだろうか。幽深だからこそ先住の豪族もなく、安全で平和な都を造営することができたからなのだろうか。
推古天皇の時代からさかのぼること約500年弱。12代景行天皇の皇子倭建命は、天皇の命により、都に安住することなく西国や東国に連続して征伐遠征した。望郷の念はつのるものの帰郷は果たせず亡くなってしまう。その死の直前に読まれたのが有名なこの望郷の歌

(やまと)は国のまほろば たたなづく青垣(あおがき)  (やま)(かく)れる(やまと)しうるはし

いつの時代にも、遠く故郷を離れていると、望郷の念には計り知れないものがある。
西へ東へと征伐に奔走する者にとって、この倭は平穏で文化的で気が休める地であったのだろう。

 西院伽藍の回廊で、そぼ降る雨に濡れる五重塔や金堂、大講堂を眺めながら、非日常の深い歴史に触れたような気がして、しばしそんなとりとめのない思いに耽っていた。ふと我に返って五重塔の相輪を見上げた。雨雲は相変わらず重く垂れこめていた。


 NO4                                        2014年4月21日
                   スローな歩みで・・・

 知人から筍をいただいた。数人共同で農家の竹林の一部を賃貸契約していて、そこで掘り取った筍だという。まさに今が旬の取りたて。さっそく妻に煮物にしてもらった。おかかを加えただけのシンプルな煮物だ。しゃきしゃきとした歯ごたえで、春の香りをともなってとても美味。
 食べ物の嗜好は歳とともに変化するようで、若いころには見向きもしなかった筍だが、最近ではこういった野菜やシンプルな料理がお気に入りになった。

 ところで、この竹類の成長の速さは人を感嘆させる。一気に伸長して成竹となる。竹にはたくさんの節があって、その節ごとに成長点があり、それらが同時に細胞分裂を起こすからだ。背丈があるのにしなやかで強靭なのは、このたくさんの節があってこそなのだという。そして、3年もするともっとも充実した竹質になつて、竹材として使用されるのはこの3年ものだそうだ。

そんな筍の季節になるといつも思うことがある。それは時代の違いによる人の寿命の長さだ。明治期の日本人の平均寿命は43歳といわれていて、現在の寿命の半分しかない。半分しかないということは、現在の2倍のスピードで人生を駆け抜けたということになる。なるほど、明治から大正にかけての作家や俳人、詩人は若くして名を馳せ後世に残している。このように、私にはこの時代の人たちが短い寿命の中で短期間のうちに自己形成を成し、偉大な実績を残したことと竹の成長が重なって、それを自分に当てはめては、人生の内容の薄さを反省させられたりしている。

とはいえ、現在の80年に及ぶ人生を当時のようなスピードで駈けていたら途中でへたばってしまうような気もする。そうならないためにも、頂点に一つだけの成長点を持つ植物のように自分のペースで残りの人生を歩んでいけたらと思っている。


 NO3                                       2014年4月13日 

たおやかな朝の笑顔に

 受傷以来、週に一度クリニックの外来リハビリに通っている。電動車椅子で30分弱の通院路の半分は季節感あふれる川沿いの遊歩道を行く。寒さ厳しい冬の川風は一瞬にして身体を硬直させるけれど、空気が澄みきった冬晴れの日の川上に見える白い富士は、「おおっ・・・富士!」 と思わず口に出るほどの雄姿を見せてくれる。寒さが緩む春先には、あちこちに梅の花が見え、柔らかな香りで春の到来を告げる。間もなくすると、穏やかな春の光の中に華やかな満開の桜が見えて春爛漫。田植えの頃には、苗代掻きが終わった田面に白い雲を浮かべた青空が鏡のように写り込み、いつもは川面で遊ぶ鴨が、水が張られた田圃でゆったりと過ごしていたりする。暑気あふれる夏には、心持ち涼しい川風が帰路の火照った体に心地よく、風にそよぐ稲の波がいっそうの涼気に誘う。秋になると、どこからともなく金木犀の芳香が漂い、暮れゆく季節のもの淋しさを感じさせる。そんな季節の情景に包まれての通院はわるくない。

 そんな道すがら、いつの頃からか、「おはようございます」 と挨拶してくれる中年の女性がいる。おそらくパート勤めなのだろう。自転車に乗ったその女性は、速度を緩めることもなく、その言葉を風の中に置いて通り過ぎていく。たおやかな笑顔の、爽やかなその一瞬に、人の優しさとすがすがしさで心が満ちる。
 なかば義務的に、機能維持の強迫観念で通院している道中にも、癒される季節の風景があり、名も知らぬ人とのふれあいがある。


 NO2                                        2014年4月5日
                満開の桜を見て・・・


 満開の桜をみて思い出したことがある。
受傷する遥か前、某薬科大学が都心から郊外へ移転することになって、移転地の現況と樹木調査に参加する機会があった。その移転地は、高木が生い茂る北斜面と灌木に蔓性の植物が絡んだ日当たりの良い南斜面がなだらかな起伏をなして連なっていた。雑木林と灌木地の境には小さな谷があって、そこに段々になった3枚ほどの小さな田んぼが放棄されていた。その田んぼと雑木林の斜面が接するあたりに、大きな山桜の木が一本、枝を田圃の上に枝垂れさせて生えていた。  
季節は春。山桜の花はソメイヨシノのような華やかさはなく、花と同時に芽吹きの若葉も交じる。そんな寂びのある風情を醸し出す山桜が、調査期間中に花を咲かせた。

ある日のお昼時、その山桜の下にブルーシートを敷いて、花見をしている家族がいた。まだ幼い子ども二人を連れた若い夫婦で、静けさの中でお弁当を広げていた。見物客でにぎわうソメイヨシノの花見スポットではなく、見向く人が誰もいない見捨てられた小さな谷間に咲く花を愛でるその心情に、純粋な心を感じた。一年もしないうちに造成されて全く違う風景になってしまうそんな場所の雑木林に咲く一本の山桜の素朴さと、それを楽しむ家族の純朴さとが相まって、とても印象的で記憶に残っていたのだ。
 後年、すでに障害を持つ身になっていたが、新聞の地方版に桜をテーマにした投稿募集をみた。その時の情景を投稿したら、運良く掲載され、それを読んだ知人が電話をくれたこともあった。近所の公園の満開の桜を見てふとそんなことを思い出して投稿したのだったが、障害を受容するためにいったんは断ち切った過去の出来事や情景がふとした瞬間によみがえって、それが受傷前の 「過去」 と障害者となった「今」を一本に結びなおす。人生にどんな変化が起きようが、人生はひとつ。人生に第一も第二もない。


 NO1                                        2014年3月25日

「障害は不便だけど、不幸ではない」という言葉について思うこと

障害者となって長らく、障害当事者が書いた本やそれに類する書物を読むことはなかった。それどころか拒絶反応さえあった。それはおそらく、自分の中に障害に対する嫌悪感があり、それを認めたくない心理から、障害者というくくりの中に自分を置くことに耐えられない心情があったからだろう。しかしここにきて、自分とは違った障害者とコミニケーションをとる必要があって、そういった本を読むようになった。

ところで、そういった類の本を読んでいると、「障害は不便だけど、不幸ではない」という言葉に時々出くわす。特に障害を持つ当事者が「生きる」をテーマにした事例発表などの中に多く見受けられる。私が最初にこの類のフレーズに出会ったのは、乙武洋匡氏の「五体不満足」で、その中で彼は「障害は不便です。だけど、不幸ではありません」と言い切っていた。私は当初、このフレーズにとても違和感を感じたものだった。私の感覚としては、身体機能を失って受傷前には何不自由なくできていた動作や行動が、意識してもできなくなった不便さこそが不幸ではないのかと。
 おそらく、このフレーズの不便を不幸と受け止めたのは、私が健常者としての過去から脱却できず、障害者として生きる再生の人生を見いだせない段階にあったからかもしれないが、障害者となった当初から「不便だけど不幸ではない」と言い切れる人は皆無に等しいだろうし、そう言い切る境地に達する人もそれほど多くはないだろうとも思う。

私は、頚椎損傷による不全麻痺という障害を持って17年という年月が流れた。しかし、健常だった過去と決別するだけでも5年ほどの時間が必要だったし、障害を持って生きていくための模索にも四苦八苦した。数年前、あるきっかけで、「車椅子お出かけ応援サイト」を立ち上げ、車いすを使用する方たちのお出かけをサポートする情報を発信するようになった。内容はともかく、このサイトを運営する作業は日々の生活にハリを与え、生活の質を高める大きな要素にもなっている。この作業を得たことで、健常時とは違った充実感も味わっている。だから今は、この「不便だけど、不幸ではない」と言う言葉はなんとなく理解できる。

きっと この言葉を口にしている人たちは、苦悩の中から這い上がり、障害を乗り切り、障害と共に生きる人生を自らの手で切り開き、障害の不便さや不自由さを相殺するような生き甲斐や使命感に燃える何かを探し当てたに違いない。

 人生の途中で、予期せぬ病気やケガで、それまで必死になって築いてきた人生がもろくも崩れ去り、失意の底で苦悩するのは当然のこと。それでも、一命をとりとめたうえは命ある限り生きるしかない。どうせ生きるなら楽しい人生にしたいものだ。なかなか難しいことではあるが、日々の生活の中に、なにか興味を引くものがあり、それを実行に移す意欲さえあれば、生きがいは見つけられるのだろう。それができた時、健常者として生きた人生と、障害者の視点で生きる人生の二つを経験していることもまんざらではない、と思えるようになるかもしれない。