新しい明日の『扉』を開けよう !   体験手記
 
   病気や事故による障害を乗り越え、新たな人生の活路を見出した方の手記をお待ちしています。
   また、そういった方々と共に苦難を乗り越えたご家族の方の体験談もお寄せください。
   苦悩の途中にある方々を一緒に応援いたしましょう。
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NO-3 母を介護して15年・・・はる美 (家族・娘)
NO-2 今ある自分を大切に   捷 治 (男性)
NO-1 新しい「今」を生きる  山添清 (サイト管理人)

NO-3
  母を介護して15年・・・                はる美(女性)・家族(娘) 1967年生

<母が障害者に>
家業で働き続けた母は、60歳の時、喘息の重い発作で心肺停止になりました。何とか命は助かり、奇跡的に意識も戻りましたが、低酸素脳症により四肢麻痺と言語障害が残ってしましました。母は病院で、自分では何も出来ない身体になってしまって生きていても仕方が無いと言って泣いていました。私達家族も、これから先どうすれば良いのかわかりませんでした。

<初めての在宅介護と福祉機器>
医師はリハビリをしても回復の見込めない母を在宅で療養させるよう私達に勧めました。家業も母がいなくて大忙しな上、病人なのに家で大丈夫か、介護なんて初めてでやっていけるのかとても不安でした。母も、家に帰りたいけれど自分では何も出来ないので家族に迷惑をかける事を気にしていましたが、一生懸命働いてくれていた母を皆で何とか介護しようと家に帰ることにしました。
医療相談室の方と相談し、往診の先生や訪問看護師を探してもらい、帰ってすぐに必要なベッド、ポータブルトイレ、吸引器等全て困らない様に手配してもらいました。私は看護師について寝巻きの着替え・身体の清拭、体位交換、ポータブルへの移動、入浴介助、経管栄養、吸入など帰ってから困らない様に必死に覚えました。一番大変だったのは、吸引でした。手袋をはめ、触った事も無い医療器具を使って母の咽の中に管を入れ、痰をとると、せきをして苦しくて顔が真っ赤になる母を見るのがとてもかわいそうで、しかも恐ろしかったです。

4ヶ月振りに家に戻った母は、介護用ベッドに寝かされたまま動けない身体で複雑な顔をしていましたが、帰って来られて本当に嬉しいと言っていました。私は、看護師に教わった事以外にも、鼻をかんだり、かゆい所をかいたり等、私達が普段無意識にしていることもやってあげなければならない事に改めて気が付きました。とても私一人でこなすのは無理だと思い、家族皆にも覚えてもらいました。特に大変だったのは、母はオムツには出来ないらしく、ポータブルを使っていました。首も座っていなく、手も足も使えない為どっしりと重く、ポータブルへの移動は二人がかりで、トイレに行く回数が一日10回以上ありました。お店が忙しくて手が空かないと、母に我慢させることになり、夜中は2回ほど父を起こさなければなりませんでした。夜中でも3時間おきに体位交換をしたり、吸引をしたりで家族全員がたちまち寝不足と腰痛に悩まされました。 

訪問看護師に相談すると、区役所に行ってヘルパーを派遣してもらえるように頼んだ方が良いと勧められました。区役所の障害者福祉課に行くと、他にも申請すれば受けられる手当や制度があると教えてくれたので、何度も足を運び全て手続きをしました。以前の医療相談室の人にも相談すると、色々な福祉機器が展示してある東京都福祉機器センターを教えてくれました。早速行き私たちが家で毎日困っている状況を職員の人に相談すると、実際に母の状態を見てみないと何が必要かわからないと言って家に来てくれました。

職員さんは、まず一番先にリフトが必要不可欠で、リフトがあれば、楽に1人で母をポータブルトイレに移せると言いました。母は全く動けるところがないので、本当に1人の介助でそんなことが出来るのか半信半疑でした。でも皆が腰痛と睡眠不足になっていたので、もしもそんなことが出来るのなら夢のような話でした。あと、母の身体に合った車椅子が必要だと言いました。それまでは、病院で手配してくれたレンタルの車椅子を使っていましたが、坐っているとすぐおしりが痛くなったり、体が横に倒れたり、体全体がずっこけ姿勢になって、5分も乗っていれば良い方でした。気分転換にと思って何度か乗せましたが、二人で抱えなければ移動も出来ないし、すぐにまたベッドに戻ってしまうので、本人も家族も乗ろう、乗せようという気持ちにはとてもなれませんでした。身体に合ったものであればかなりの時間乗っていられるし、おしりも痛くならないし、リフトがあれば車椅子にも1人で乗せられますからと簡単に言いました。その後、職員さんは実際に半年間かけ、役所の人や業者と共に家に何度も足を運び、リフト・車いす・浴室のリフト・住宅改修・コミュニケーション機器等全てを導入し、サポートしてくれたので、私達も根気よく使い慣れていきました。お陰で皆の腰痛、睡眠不足、ストレス等が徐々に減り、共倒れにならずに助かりました。今考えると、福祉機器を早くに使い始めなかったら、だんだん介護者も年を取って大変になっていくので、こんなに長く在宅介護を続けるのは絶対に無理だったと思います。

<初めての外出>
一年経ち日々の介護に余裕が出て来て、食事のリハビリも始め、家族と同じ食事をペースト食にして食べると、自分の口から食べるのはとても美味しいと喜んでいました。食事の量に比例して毎日は乗れなかった車椅子も、徐々に慣れてきて3時間位乗れるようになりました。近くなら外出も出来ると思い、地域振興券が交付され、何かこれで好きなものを買いに行こうよと母を買い物に誘いました。母は、動けない身体になって初めての外出で、皆に見られるのが嫌だったのと、意のままにならない身体なので気が乗らない様でした。結局半ば無理やり連れていきましたが、デパートに並んだ小豆色の麦藁帽子があり、「それが良いそれが良い。」と言って、勘定場へ一緒に行き、自分で買いました。母は、その帽子を早速かぶってとても満足げに家に帰り、父に上品な帽子で良いと誉められて意外に喜んでいました。 

次に、新宿区で選挙があり、私はまた母を誘いました。地元の選挙となると、選挙委員で知合いの人がいるので、母はとても嫌だったようです。私は、体は動かなくても頭は以前同様しっかりしているから、自信を持ってと励まし、父は、新宿に住んでいる以上は、投票義務を果たさないと住む権利は無いぞと言い、母はしぶしぶ連れて行かれることになりました。投票が終わると、母を良く知っている選挙委員が近くに来て、「吉田さん大変だけど良く頑張っているのね、これからももっともっと頑張ってね。」と励ましてくれました。母は嬉しくて嬉しくて暫く泣いていました。投票義務も果たし、母は、明らかに自信を持ったような晴れ晴れとして生きがいを感じた顔をしていました。 

段々外へ出ることも、知合いの人に合うことにも慣れてきたようで良くでかけるようになりました。外出すると気持ちがよく、お腹も空き、ごはんが美味しく食べられるので、また体力が付き、更に車いすに長く乗っていられる様になっていきました。少し遠出も出来る様になったので、もっと母に楽しみを見つけてもらいたいと思い、母の大好きな渡る世間は鬼ばかりのお芝居が芸術座であると宣伝していたので、車いすで問題が無いか色々と調べ、意外と大丈夫そうなので誘って見に行きました。母は、お馴染みの役者さんが出てくると、食い入るように見ていて、笑える場面では、皆と一緒に涙が出るほど笑っていました。私は、ティッシュで涙を拭いてあげながら、ああこんなに喜んでもらえて来て本当に良かった、これからは私が手、足、口の代わりになり、それでも足りないところは人手や福祉で助けてもらい、両手両足が動けなくて、言語障害があるから何も出来ないと母に絶対に思わせないようにしようと決めました。そして、母に車椅子でもこうして色々な所に出かけられるのだから、これからも行きたいところがあったらどんどん行こう、仕事をしていて今まで出来なかった分これから楽しもうよと話しました。 

父は、家業と母の介護との両立は無理なので、母が障害者になって1年半後お店を閉め今まで頑張ってくれた母の介護に専念することにしました。その後、時間が出来た為、色々な所へ出かけました。山梨の田舎、映画、サーカス、フィギュアスケート、東京ドーム野球観戦、国技館の相撲観戦、コンサート、イチゴ狩り等、出かけると席が良かったり、優先的に案内してくれたり、入場料が安かったり、交通機関の割引を利用すると、一緒に付添う家族の方が恩恵にあやかったりする事が多く、又母に連れて行って!というと、自分にも皆にしてあげられることがあると思い嬉しそうな顔をしていました。

<初めての旅行>
母は、良く外出に慣れたお陰でとても体力がつき、車いすに一日中乗っていられるようになりました。障害者になって5年が過ぎた頃、家族同様に私達家族のサポートをしてくれていた私の親友が、今度泊まりで旅行に行こうよ!と誘ってくれました。しかし、泊まりは初めてなので、疲れに行くだけだから嫌だと父は言い、私も旅行中はリフトも無いし、疲れて帰って来ても誰かが介護を代わってやってくれるわけじゃないから、ちょっとそこまでは大変だなぁと言いました。でも友達は、じゃあ帰って来ても手伝ってあげるからとまで言ってくれたので、もしも旅行先で労力的に大変な事があっても、友達が一緒にいるだけで精神的には楽しいし、ともかく行ってみようと思いました。嫌がる父と不安だけど行きたそうな母と私と友達で、一泊なら贅沢に露天内風呂付きの温泉宿へとバリアフリーの場所をインターネットで探し、伊東へ行きました。 私と友達二人で母の用が足りるので、父は単独の温泉旅行気分で、ゆったりと介護で疲れた体を休めることが出来ました。私達女性陣は、浴衣を着て写真を撮ったり、三人で温泉に入ったり、豪華な旅行気分を楽しみました。皆で美味しい料理を食べ(母は持参したミキサーでペースト状にして食べ)、皆で楽しい時を過ごし、案ずるより産むがやすしで、帰って来た時には今度は何処へ行こうかと話をしていました。

良い循環が始まると、あれよあれよという間にそれが続いていきます。結局、それから、2泊3日富士五湖・沖縄、3泊4日伊豆大島・函館、7泊8日愛知万博等色々な所へ旅行に行きました。旅行に行ったバリアフリーの宿泊先で、障害者と付添人の宿泊費を一部助成してくれる東京都休養ホーム事業というのがある事を教えてもらい利用し始めました。移動手段は自家用車・レンタカー・大型飛行機・小型飛行機、泊まる所は、ペンション・オートキャンプ場・ウィークリーマンション(リフトと介護ベッドレンタル)、他色々な事を体験しながら、失敗したことは次の旅行にその経験を生かし、母のペースで無理の無い旅行を計画しました。やがて、アメリカに住んでいる息子達の所へ行くのも夢じゃないと思い始めました。 

<夢の実現>
2012年12月、旅行を始めて10年、母は75歳、生まれて初めて海外旅行をしました。夢の実現です。長男(私の兄)は、母が障害者になる前からボストンに住んでいます。次男は、家業を継ぐつもりで手伝ってくれていましたが、お店が無くなり働く場を求めてアメリカに行き、それ以来ずっとニューヨークで働いて住んでいます。 

12時間かけて頑張って行った母は、兄の一軒家で自分の家の様に介護してもらい、観光にも行きました。クリスマスには弟が初対面の妻と孫を連れて、車で5時間かけてボストンまで両親に会いに来てくれました。 それだけでなく、皆でニューヨークへ車で移動し、弟の家に3泊して弟の案内でニューヨーク観光もしました。タイムズスクエア・自由の女神・ロックフェラーセンター等良くテレビで見る所へ父が行ってみたいと言っていたので、とても夢みたいだと喜んでいました。ブロードウェイのミュージカルは皆感動しました。母はサブウエイに乗った事を自慢していました。両親は、息子達家族が良く面倒を見てくれて、それぞれに良い妻と子に恵まれてまあまあの生活が出来ているようでとても安心したと言っていました。

15年経った今、母は、何処へでも行かれて、何でも出来て、自分には何も出来ない事は無いと言っています。お店で元気で働いていた時には出来なかった事が今は出来るから幸せだと言っています。そういう生き方を見つけて来られたのは、まず出来る事をやってみる、そして外へ出てみる気持ちがあったからだと思います。外へ出てみると、色々な人に出会い、助けてもらったり、色々な発見があります。そして、介護は自分たち家族だけでは限界があるので、福祉機器を利用し、制度を利用し、ヘルパー、訪問看護、往診、訪問リハビリの方々の協力を得て、常に気持ちに余裕を持ちながら続けて行く必要があるのだと思います。 


NO-2
  今ある自分を大切に・・・                    捷 治 1939年生 男性

私が脊髄小脳変性症を発症し、車椅子を使用するようになったのは、年も押し迫った2003年12月27日のことでした。世間は一年の締めくくりと、希望に満ちた新たな年を迎える準備に忙しない時節でしたが、そんな世間とは裏腹に、私は絶望の新年を迎えなくてはなりませんでした。いつ襲ってくるか分からない病気や事故で人生が狂うことは、漠然と頭ではわかっていても、いざ己の身上に起こると、信じられない事態にうろたえてしまいます。

脊髄小脳変性症という病気は小脳及び脳幹から脊髄にかけての神経細胞が徐々に破壊、消失していく病気で、10年20年単位で進行していきます。極めてゆっくり進行し、自覚症状としてなかなか認識できなてので、運動機能が低下して動作や歩行に異常を感じるようになって初めて「何かおかしい」ということになります。自覚するようになった時にはすでに手遅れの状態ということになります。

発症する前の私はバイクで遠出したり、旅行を楽しんだりとかなり行動的でしたが、現在の私は、週3回30分程のベッドから車椅子への移乗をヘルパーさんの、褥瘡(じょくそう)処置などの身体管理は訪問看護師さんのお世話になっています。加えて身体機能維持のために訪問リハビリも受けています。また週2回は訪問入浴で入浴しています。日常生活においても、そのほとんどを妻の介助に頼っている状態です。

なんとも不本意な現実ですが、少しでも妻への負担を軽減させたいと、自主的にリハビリ用の簡易型電動自転車で足や腕の運動もしています。その甲斐あってか、定期検診などでの病院や買い物で出かける時は、妻の介助でバスを利用することができます。以前は介護タクシーを利用していたのですが、料金が高いこともあってバスに切り替えました。バスの利用に際しては当初、乗降で運転手さんや乗客に迷惑をかけたり、渋滞を引き起こしたりで恐縮しきりでしたが、今は気にしないようにしています。余計な気兼ねなどすると、それこそ何も行動に移せなくなりますからね。それにバスも法律で車椅子対応が義務付けられていますし、車椅子使用者だって乗客だと開き直っています。

現在の生活のほとんどはベッド上ですが、ベッドテーブルをセットしてワープロで日記を綴ったり、多ピースのパズルに興じたりして過ごしています。極めてゆっくり進行する病気ですので、これから先の症状進行の恐怖と戦いながらも、自分なりに充実した日々が送れたらと頑張っています。失ったものを嘆いても前には進まない。今ある自分を大切にしながら生きていくつもりです。 

NO-1
 新しい『今』を生きる                 山添 清 (当サイトの管理人1947生・男性)

◇不幸は突然やってくる
 突然襲ってくる思わぬ事故や病気によって、それまで築き上げた人生や身体的機能が失われることほど人を絶望させることはありません。
 私は、48歳の時、高速道路上での交通事故に巻き込まれ、瀕死の重体となりました。某大学附属病院に救急搬送され、救命センターでの4日間の処置で一命は取留めたものの、頚椎損傷による不全麻痺と診断されました。手術は危険ということで保存治療とされ、4ヶ月ほどは身動きひとつ出来ない状態でした。この大学病院での6ヶ月間の入院生活の最後で、やつと車椅子に移乗させてもらって座ることができるようになりました。その後、約10ヶ月間、山梨県にあるリハビリ病院で本格的なリハビリを受けました。この病院のリハビリはかなりハードでしたが、優れた理学及び作業療法士に恵まれて、かなりの機能回復がみられました。通常は約6ヶ月での転院勧告がこの病院で10ヶ月に及んでリハビリを受けられたのは幸運でした。最後に国立の医療センターで約3ヶ月間、残存機能での日常生活動作(ADL)の訓練を受けて、1年半ぶりに帰宅することができました。

◇絶望の淵を彷徨う
しかし、実はそれからが地獄でした。病院は隔離された窮屈な環境ではありますが、生活という面からみると車椅子での移動はしやすく、設備的にも整っています。入院中は少しでも機能回復することだけを念じてリハビリに励み、帰宅後の生活についてはさほど考えることもありませんでした。ところが、いざ帰宅してみると車椅子での移動はもちろん、トイレさえも使えません。リビングにベッドを据え、隅にポータブルトイレを置いて用を足す。その情けなさと実生活に対応できない身体になってしまった現実と、それまで築き上げた人生の喪失感に支配され、苛立ち、自暴自棄、薬物を探して自殺を企図するなど、5年ほどは絶望の淵を彷徨っていました。

◇転機
 人はどんな苦悩や絶望の渦中にあっても、その状態を長期間続けることにも耐えられなくなります。次第に現実を受け入れ、障害者として生ることを覚悟をするようになりました。この間、バリアフリー新居に移ったのでトイレや入浴、室内移動といったADL[日常生活動作]の苦労は軽減されたことも影響したのかもしれません。 そんな頃、脳梗塞で片麻痺と失語症の母親を介護している知人が、私の介助者まで手配してくれて、半ば強引に車で行く1泊の伊香保温泉旅行に誘ってくれました。受傷後初めてで、かつ単独での参加だったので不安は尽きませんでしたが、入浴や食後のカラオケといった楽しい時間に、生きている実感を改めて認識したものです。その半年後、今度は伊豆に誘ってくれました。
 旅行に行きたいと思っても、計画を具体化する段階で、自己の身体機能を考えると不安が募り、行きたい気持ちも萎えてしまいます。やはり誰かの力を借りないと最初の一歩はなかなか踏み出せません。この知人には心から感謝しています。


◇新たな境地
 またある時、インターネットで知り合った障害者グループが、学生ボランティアと一緒に行く韓国釜山のツアーに誘ってくれました。彼らは私より重度の障害者で、食事やトイレに全介助が必要な人たちです。そんな人たちが平然と旅行をしている。その上、話す内容が外国のことやホノルルマラソンに車椅子で参加したことなど・・・目からウロコのことばかりなのです。この旅行は私の人生再生の大きな転機になりました。
 こうした外的支援、交流によって障害者として生きる意識改革と行動力が培われました。
 これを契機に、電動車椅子で一人で、静岡の友人に会いに新幹線で出かけたり、西宮に住む妹夫婦と京都駅で待ち合わせて、京都観光を楽しんだり、知人と一緒にグアムにも2回行くことができました。現在も機会あるごとに泊まりや日帰りの旅行を楽しんでいます。

◇与えられた境遇の中で生きる
 障害や後遺症の程度が重度ほど、世の中の不幸すべてを一人負わされたような、不条理と惨めさ、不公平な感情に支配されます。しかし、よく言われることですが、人は生まれながらに不平等、不公平なのですよね。生まれる境遇がちがう、才能や容姿がちがう、寿命がちがう。裕福で恵まれた家庭に生まれる子もいれば、刑務所で生まれる子もいる。能力に優れた人もいれば、知的障害を負って生まれてくる人もいる。また100歳まで生きられる人もいれば、生まれてすぐに命果てる子もいる。なんとも厳しく悲しい現実ですが、生命ある限り自分に与えられた境遇の中で、精一杯生き抜くしかないようです。
 受傷後15年、やっとこういう境地に行き着いて、今は健常で普通に社会生活を送った人生と、障害に制約されつつも違った視点で歩む人生の、この二つを経験していることは満更でもないのではと思ったりもします。

◇最後に
 以上のように受傷以来、様々な心温かい人に巡り会い、家族に支えられ、自分でも恵まれていると感謝しています。しかし一方で、前向きな気持ち、積極的な姿勢がないと道は開けないということも実感しています。こういった私の経験と療法士や看護師の知識と経験を加味したこのサイトが、皆様の外に向かって踏み出す一歩の一助になればと願う次第です。